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| 萩ガラス・維新の夢を21世紀に | 中嶋治平 関係年譜 |

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萩ガラス・維新の夢を二十一世紀に

〜 中嶋 治平 〜

 維新の原動力長州藩士吉田松陰、門下生高杉晋作、さらに木戸孝允を知る人はあっても長州藩科学者、中嶋治平を知る人は少ない。

 彼は幼少のころから朝鮮語、蘭語、英語を修め蘭人医師ポンペに師事して医学を究めコレラ流行時には萩を救い、また蘭人技術者ハルデスから学んだ鉄生産のための高炉や耐火煉瓦を研究し、写真技術の導入を計り、洋式軍艦を建造し、我国で最初に蒸気機関車を運転し、羊を飼育して羅紗を織り染め物の研究に没頭した。

 一方では高杉晋作に共鳴して苦境を救い、まさに維新の激動時に科学で未来を見据えていた萩の誇る先覚者であった。いや幕末日本の知られざるマルチ巨人であった。
その彼が萩の地で研究した一つに「萩ガラス」がある。

 維新の夢を見つつ、当時の最先端の技術である蒸気機関を使用してガラス産業の振興に努めた中島治平、彼の夢も攘夷開戦、蛤御門の変、長州征伐と続く激動の世にわずか数年で消え、その後永く萩ガラスは忘れられていた。

 今145年を経て、古文書を紐解き、残された治平遺品を手掛かりに打ち捨てられた笠山産の石英玄武岩を最先端の技術と感性で鋳る。

 治平が賭ける、その思いの結晶が、この「萩ガラス」である。ひんやりした手触りだが、その中には熱き思いが秘められている。

 


中嶋治平 関係年譜

中嶋治平の生家
萩市浜崎町
中嶋治平の墓
萩市北古萩町浄国寺
文政6年 1823 萩市浜崎新丁に朝鮮通詞 中嶋正貞の長男として誕生する。
天保11年
18才
1840
9月 萩にて青木周弼の蘭学塾で蘭語を学ぶ。
嘉永4年
30才
1851
1月 萩藩円山派絵師森寛斉から画技を推賞される。またこの時期和歌を好む。
嘉永6年
32才
1853
6月 浦賀にペーリー引いる米艦来る。
父正貞天下の形勢の変ずると知り報效を図るため、息子治平に外国の学術を究めて国家の用に供せしむ様に指示する。
安政3年
34才
1856
私費で長崎へ行き、蘭人ハルデス、ポンペに師事し、英語・蘭語・医学・理化学・冶金学を学ぶ。
安政5年
36才
1858
6月 コレラ予防法を長州藩に急報する。
10月 その功績により、官費伝習生となり、士藉に列せられる。
安政6年
37才
1859
長崎奉行所の命により綿羊の増殖・羊毛の染織法(黒染・紅染)、色抜法、羅紗織法、等の調査依頼を受け洋書を翻訳し、その実験をして結果を録上する。
7月 萩に帰国。
10月 藩主・毛利敬親に製鐡・綿羊の飼育・製茶・ガラス・陣中兵糧パン製造の必要性を建白する。
吉田松陰刑死する。
万延元年
38才
1860
1月 治平に英語を師事した北条源蔵が幕使に従い米国へ赴く。
5月 萩市江向の南園(現・萩自動車学校)内にガラス製造所を設置。
6月 鉄工局の開設と分析術の利用法について建白する。
8月 硝子製造諸見合役、分析試験御用掛りに任じられる。
藩主より硝子製造のための原石採掘についての御沙汰が出る。
切り子硝子職人を江戸から西宮留次郎およびその弟子の大坂者長蔵等を招聘する。
10月 薩摩の集成館へ出張し、反射炉・水車機・硝石・ガラス等の製造所を視察。その後、長崎に渡り、小型模型蒸気機関車を購入して帰り、藩主・敬親に献上した。
11月 北条源蔵が米国より萩に帰国する。
この年、写真術の蘭書を翻訳。→「ホトガラヒーの説」、長州藩写真の祖小野為八、山本伝兵衛等を教育する。
文久元年
39才
1861
3月 薩摩藩と硝子器の交易が始まる。
4月 萩城内で蒸気機関車「興丸号」を運転。
5月 長井雅楽、公武合体策を上奏するため萩硝子器を献上して内諾に成功する。
8月 藩主・敬親は、天皇の中秋観月御宴用として、萩硝子器猪口15客、杯台1客、鉢3客、小皿20客を進献した。
9月 軍事優先の為に舎密学の研究は硝子製造のみに縮小命令が出る。
文久2年
40才
1862
3月 殖産振興・硝子の改良研究・鉱物資源の調査・鯨油の利用・硝石火薬の研究等の必要性について建白書を提出する。
4月 山口代官所の依頼により西洋染方を紺屋数十人に教授。
村田蔵六(大村益次郎)が藩主から霰文様の酒盃を拝領する。
文久3年
41才
1863
3月 理学・舎密学の振興、硝子製造の技術革新について藩政府に4度目の建白書を提出し舎密局の開設を嘆願する。
5月 攘夷開戦。
6月 馬関砲台報復戦。アメリカ艦に撃沈された長州藩唯一の軍艦「壬戊丸」450トンの引き揚げ・浮上に成功する。この功績により、一代限りの足軽の士分階級に任じられる。
元治元年
42才
1864
1月 硝子製造方・鉱属詮議御用掛りに任命される。村田蔵六(大村益次郎)・北条源蔵を伴って藩内の鉱区調査を開始する。
5月 川上村亀ヶ瀬に製鉄場設置命令が出る。
7月 蛤御門の変。
8月 四ヶ国連合艦隊下関攻撃。
11月 第一次長州征伐が始まる。
慶応元年
43才
1865
4月 第二次長州征伐命令が出る。
7月 藩命により通貨を分析して金銀分析表を所帯方に納めた。
11月 藩主敬親が硝子粉砕水車場を視察する。好生堂(医学所)分析場御用掛を命じられ理化学に関する一切の事務を引き受ける。
慶応2年
44才
1866
1月 21日、薩長連合成立。
2月 8日、舎密局の設立命令が出て、その総裁に任命される。身柄一代無給通として下級武士待遇となる。
4月 1日、硝子製造所が失火により全焼。
6月 幕府との四境戦争が始まる。ピストル玉を改良・製造。
12月 28日萩・浜崎新丁の自宅で病死(享年44才)。
森寛斎について画も学んでおり、多才な科学者であった。
墓は浄国寺(萩市北古萩町)にある。
    毛利敬親  1819〜1871
吉田松陰  1830〜1859
高杉晋作  1839〜1867
  • 毛利家文庫(山口県文書館蔵)
  • 大正12年 安藤紀一著 中島聿徳伝より抜粋(萩市立図書館蔵)



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